#54
自立しているつもりだった自分
今年の夏休みは、娘が生まれてから初めて家族3人で実家の奈良に帰りました。
今回の帰省では、十数年ぶりにおばあちゃんに会って、じっくりと話をしました。
9年くらい前に、おばあちゃんの痴呆がきっかけで、
親族内で人間関係の問題が起こりました。
それを機に、私もおばあちゃんとの距離ができてしまい、
ほとんど会うことも、連絡することもなくなっていました。
「おばあちゃんと接すると何を言われるかわからない」
「嫌な気持ちになるかもしれない」
と過去の経験からマイナスの事象を連想して、
自分から連絡しようとしませんでした。
しかし、私が小さい頃からずっとかわいがってくれたり、
いろいろと教えてくれたりしたことを考えると、申し訳ない気持ちになり、
ずっと心の中で引っかかっていました。
そして、今回、おばあちゃんの家を訪ねました。
おばあちゃんに嫁と娘を紹介すると、「(娘は生まれて)何か月になったん?」と
何回も聞くので「ん?ボケてるのかな」と一瞬不安がよぎりました。
しかし、話していくにつれ、私や弟の昔ばなしに花が咲き、安心しました。
その話の中で、自分たち兄弟は周りの人にいろいろと気にかけてもらって、
心配をしてもらって育ててもらってきたことを改めて実感しました。
学校で問題が起こった時、事故した時など、わかっていたつもりですが、
自分たちの知らないところで、気にかけてくれる人がいることに、
しみじみとありがたく思うとともに、家族の温かさを感じました。
最近、私は、アドラー心理学をわかりやすく書いた『嫌われる勇気』を
きっかけに心理学の本を読むことが増えています。アドラー心理学では、
人間の悩みのすべては人間関係に帰属すると言われています。
人は他の人と関わり合いながら、自分の存在を実感し、
心の安定を得ているのでしょう。
私は、自意識が強いというか少々過剰なところがあり、
自分は自立していると思っていました。
そして、心の状態が不安定な人を見ると、
「自分は自分の気持ちをコントロールしている。自分の気持ちを
コントロールできずに、発散する人は子供じみていて、自分勝手だ」
と相手を自立していない未熟な存在として見下しているような
ところがあったように思います。
しかし、自分は自分の力で自立している(心の安定を得ている)のではなく、
実際は両親をはじめ多くの人たちから気をかけてもらい、
心配してもらっていたことを無意識的に感じていたことで、
自分の心の平安を得てきたのだと思います。
その結果、自分は精神的に自立していると思い込んでいたのでしょう。
会社でも同じようなことが言えます。本人の知らないところで、
周りの人々に支えられ、モチベーションを保つことができたり、
適性に合った仕事を任せてもらったりしています。
その結果、成果を上げることができたり、成長できたりしています。
それにより「自分は自立している」と思い込んでいる。
実は会社という環境があり、それによって生かされていることに気づかない。
だから、「自分はできる」「自分がすごい」「自分が成果を上げた」と
自分にばかり意識が向くのでしょう。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざではないですが、
何回もこのような経験をしているにも関わらず、時が経つと、
有難さを忘れてしまいます。
当たり前のことを当たり前にせず、大切に日々を過ごしていければ、
もっと毎日が充実すると感じた出来事でした。