#40
50年生きて思うこと
先月(4月)は、私の50回目の誕生月だった。近くにいる知人には、「50歳って、何だか重いよな」って、
よく愚痴っていたのだが、歳は、情け容赦なく取ってしまう。
私は、身体が動き、頭脳が明晰であれば、年齢に関係なく働き続けようと思っているが、
60歳定年を前提にして、第一線に立てる時間を計算すると、10年×1,800時間=18,000時間となる。
これを日数に換算すると、(1日8時間労働を基準として算出)10年×1,800時間/8時間/日=2,250日。
計算結果の数値を眺めても、まだ、先はあるなという気になるのだが、目標を定めると感覚が変わる。
例えば、趣味としているフルマラソンの出場。2008年から、1年に1回、大会に申し込んできたので、このペースでレースに参加すると、あと10回。
そして、念願の目標である4時間切り(サブ4)を目指すとなると、
老化現象との戦いが年々厳しくなるので、なるべく若いうちに達成しなければ、という意識も芽生える。
実は、50回目の誕生日を記念して、多くの知人からお祝いのメッセージも頂戴した。
思ってもみないことで、驚いたのはもちろん、嬉しさとありがたさを噛みしめたのだが、
メッセージを頂戴した方々をはじめ、多くの知人・友人たちと、
定期的に会食したいなとの思いがこみ上げた。
月に1回、知人・友人たちと会食する時間を設けることを前提に計算すると、
10年×12回/年=120回となり、一人1回ずつ位しか割り当てられない。
50年生きて思うことの第一番目は、「与えられた時間を、大切に使おう」である。
これまでの一人ひとりとの出会いは貴重であり、
これからの一人ひとりとの出会いも有難い。
だから、1回1回の面談や打ち合わせ、会食を大切な場として楽しもう。
二番目は、「人間も年輪を刻む。」私は、知人の結婚式に招かれ、
お祝いのスピーチをさせていただく場合に、「夫婦間の愛情は、20年かけて培われます」という主旨でお話しをする。
私が人間的に未熟だからなのだろうが、自分の実体験として、
20年間の紆余曲折を経て、やっと夫婦としての味が出てきたと感じているからだ。夫婦間だけではなく、人生は山あれば谷あり、喜怒哀楽があるから人を成長させる。谷を目の当たりにすれば、
その場から逃れ、怒りや哀しい出来ごとに遭遇すると、その事から離れているのでは、
人生の醍醐味は味わえない。晴れの日があれば、雨の日もある。
それが自然の摂理で、全てをひっくるめて受け止めるから、
雨の日の過ごし方を身につけ、晴れの日の清々しさを感じる心が培われる。
三番目は、「身体は消耗品、心は蓄積品。」年齢による体力の衰えは、
口にしたくないのだが、認めざるを得ない事実である。
以前、胃潰瘍の疑いがあり胃カメラ検査を受けたのだが、
その際に医者が「人間の体は消耗品。長い期間使っていれば、
胃もすり減り少々弱ってくるもんなんですよ」と言っていた。
人間のあらゆる臓器は、寿命をまっとうするまで、休みなく働き続ける。
だから、消耗するのが当たり前。
従って、体力の衰えは受け入れなければならない。
が、しかし、心は消耗しない。歳を重ねるたびに、感性が豊かになる。
自然体に近づくというか、真贋を見分ける目が養われてきた感じがする。
自分の価値観や私利私欲という色眼鏡で、事物を見なくなったからなのかなとも思う。
そんな今の自分は、少々の困難に遭遇しても、楽に生きられるというか、全てが楽しい。
経験や知識の蓄積が大きく影響しているのだろう。その中でも、もっとも大きな蓄積資産は、人脈である。
小学生時代の担任の先生に年賀状を送っているのだが、未だに、丁寧なコメントを記した返信を頂戴する。
やんちゃ坊主で、先生には迷惑しかかけていないのに、
心のこもった文面で、今でも私を励ましてくれている。
この担任の先生をはじめとして、50年間、
本当に多くの人たちから、多大なご恩を頂戴した。この蓄積されたご恩よって、私の心根は磨かれたのだと思う。
50年生きてきて思うことをまとめると、「人間は、歳を重ねるごとに、心が豊かになる」ということになろう。
そして、心は、ある一つのことを追求することによって、豊かになるのだと思う。
4日間の死闘の末、巨大なカジキマグロを釣り上げるのだが、
舟にくくりつけたカジキマグロはサメに食べられてしまうヘミングウェイの名作、
「老人と海」の主人公のような人生をこれからも歩み、まっとうしたい。